創業者の話

 大正5年長野県下伊那郡阿智村で生まれた原正雄は、小学校を卒業後すぐに上京し、港区にあった工具屋・井原商店で丁稚奉公を始めます。 勤め始めたばかりの頃、「田舎に帰りたい」と実家にあてて葉書を送りました。 けれども、葉書を投函した後で思い直し「頑張って働く」と改めて葉書を送ったそうです。 その2枚の葉書を田舎で同時に受け取った母親は末の息子を思い、涙を流していたと聞いています。
井原商店では夜学に通わせて頂いたり、スキーや山登りに連れて行って頂いたり、仕事以外にも大変お世話になり、育てて頂きました。
昭和17年11月に井原商店から独立し、正雄は港区新広尾1丁目に『原正雄商店』を創業します。 戦災にあい、世田谷区に営業所を開設するなど、数回の引っ越しを経る中で、『合名会社原正雄商店』、『原工具株式会社』と改組し、 現在の港区芝4丁目に社屋を構えることとなりました。
どこに行っても慕われる面倒見の良い人だったと正雄を知る社員は語ります。 当時、住み込みで働く社員を何人も受け入れて、中学を卒業して上京した者は定時制高校に通わせました。 月2回の休みの日には「皆で行くならいいよ」と会社の車を使って正雄の子ども達も一緒に何台も連れだって海水浴に出かけました。 休みの前日の晩から皆で夜行列車に乗って登山に出かけたこともありました。社員皆が家族のように暮らしていました。
正雄は、ノコギリの刃が売れるとわかったら、それをトラックいっぱい仕入れて、箱単位で安く売り歩くといった、まるで閉店セールのような大胆な方法で商売をすることもありました。 もちろん利益を上げていたのですが、その噂を聞きつけた大阪の商売仲間から「お金に困っているのか?」と心配されたというエピソードがあります。
昭和41年7月、正雄は肺がんを患い余命10ヶ月の告知を受けます。 手術を勧められますが「切らずに治す」と病院を逃げ出して、免疫療法に詳しい博士を訪ねるなど、いいと言われることは何でもしながら、がんと一緒に事業を進めていく道を選びました。
昭和43年5月、告知から1年10ヶ月に渡った病魔との苦闘が終わりを迎えました。
正雄は「何事にも『三方良し』を考えて行動しなさい」、「お金は銀行から借りなさい、知恵は人様から借りなさい、 しかし健康だけはどこからも借りられない」、「道徳の勉強を続けていくように」という言葉を残しました。 家族や社員の一人ひとりが、皆の幸せを想いながら行動し、社会に貢献できる会社に発展することを今も誰よりも願っていることでしょう。